コラム

「障害者は一人前に働けない」という偏見と闘う裁判が始まった

共生社会の足音

弁護士 大胡田 誠

月刊『視覚障害』2021年8月号掲載

1.はじめに

私は、今、大阪地裁で行われているある裁判に注目している。

この裁判の原告は、交通事故で亡くなった難聴の聴覚障害を持つ井出安優香さん(当時11歳)の両親だ。

安優香さんは、2018年2月1日、当時在籍していた大阪府立生野聴覚支援学校からの下校中に発生した事故で亡くなった。横断歩道の前で信号待ちをしていたところ、付近で道路工事をしていたホイールローダーという重機が突然暴走し、同校の児童と教員の列に突っ込んで、安優香さんを含め5人を死傷させたのだ。

このホイールローダーを運転していた加害者は、難治てんかんという、いつ意識を失う発作が起こるかわからない持病を持っており、それまでに何度も交通事故を起こしていた。それにもかかわらず、虚偽の申告をして免許を取得し、重機の運転を続けていた。

2019年3月、刑事事件の裁判では加害者に対し、危険運転致死傷罪で懲役7年の判決が言い渡された。現在、安優香さんの両親が、この加害者と雇用していた会社を相手取って、慰謝料や逸失利益などの賠償を求めて民事訴訟を起こしている。

本誌2020年10月号の本欄では、視覚障害を持つ女子高生が被害者となった交通事故の裁判について、将来得られたはずの年収を、健常者の7割と判断した山口地裁下関支部の裁判例を紹介したが、この事件でも、安優香さんが将来得られたはずの収入が大きな争点になっている。この裁判も、山口の裁判同様、社会の中にある「障害者は一人前に働けない」という偏見と闘う裁判だ。

2.安優香さんの逸失利益に関する加害者側の主張

前述のように、この訴訟の中心的な争点は、聴覚障害を持つ安優香さんが、もし事故に遭わなかったならば将来得ることのできた収入の額(逸失利益)だ。

健常の年少者が事故に遭った場合、その逸失利益は、一般に、被害者が67歳まで全労働者の平均賃金を得るものと仮定して計算される。そして、この場合、男女の違いも、名門の私立小学校に通っていたか、公立の小学校の児童だったのかなどの違いも、考慮されないというのが確立された訴訟実務である。

そして、安優香さんの両親も、この考えに従い、加害者側に対して、健常の年少者の場合と同様、全労働者の平均賃金を基準に逸失利益の賠償を求めた。

これに対し、加害者側は裁判の中で、安優香さんの逸失利益は、なんと全女性労働者の平均賃金の4割であると主張し、以下のように述べている。

まず、聴覚障害を持つ子どもの思考力・言語力・学力について、聴覚障害を持つ子どもは、抽象的な概念の理解を身に付けることが困難であり、その高校卒業時点での思考力、言語力、学力は、小学校中学年水準に留まる(いわゆる「9歳の壁」問題)。聴覚障害を持つ子どもは、健常者に比べて大学等に進学できる学力を獲得することが困難である。仮に大学等に進学できても、十分な情報保障や周囲の理解が得られず、高等教育の学習に支障が出ることが少なくないというのである。

さらに、聴覚障害者の就労状況について、聴覚障害者は労働市場に参入する際にも、依然として、情報保障の不足や周囲の聴覚障害に対する理解・配慮の欠如に悩まされることが多い。 そして、就職できたとしても、非正規社員が多く、昇進できる者も少なく、転職を繰り返す者も多い。そのまま働き続けることができず、未就業者になる者も多い。仮に正社員として就職できたとしても、聴覚障害がない社員と同様の昇進・昇給をすることは困難である。このため、聴覚障害者が得られる賃金は低廉なものであるとも述べている。

3.加害者側の主張の不当性

いくら損害賠償額を低く抑えたい加害者側の主張とは言え、ここまであからさまに安優香さんや聴覚障害者を貶める言い分に、私は怒りを抑えきれない。いくら法制度が変わっても、社会の意識は全く変わっていないのだということを、まざまざと見せつけられた思いだ。

今、加害者側のこのような主張に憤慨した聴覚障害を持つ弁護士が中心となり、裁判所に正しい判決を出してもらうべく、積極的な訴訟活動が行われている。

以下、少し長くなるが、弁護団の主張を要約する。

まず、現在の聴覚障害教育は、従来の、相手の口の形を読むコミュニケーション方法(口話)偏重の教育から、手話を積極的に使用する教育に大きく変わっている。

従来は、聾学校中学部以降に手話が導入されていたところ、2000年以降の学校現場では、手話導入の年齢が乳幼児期に引き下げられることになった。乳幼児期に手話が導入されていなかった時代に生まれた聴覚障害のある子どもは、同年齢の聴覚障害のない子どもに比べて、出来事の論理的あるいは時間的な関連付けが未熟な傾向にあったが、乳幼児期から手話導入と聴覚併用を行った聴覚支援学校における子どもは、「9歳の壁」にぶつからず、順調に育っていることがデータからも明らかとなっている。

次に、職場において聴覚障害者が様々な困難に直面するという主張に対しては、そもそも、現在の障害者法制の前提となっている障害の「社会モデル」の考えからすれば、障害者が直面する困難は、障害の特性と社会的障壁の相互作用によって起こるものであり、社会の側が変わることによって、その障壁を解消していかなければならないものである。

そして、障害者雇用促進法では、障害を持つ労働者を雇用する雇用主は、障害を持つ労働者の特性に配慮し、適切な合理的配慮を行わなければならないという合理的配慮義務を課せられている。聴覚障害を持つ労働者が、コミュニケーション上の不都合や不利益に直面するとすれば、その原因は聴覚障害者自身の聞こえない・聞こえにくいことにあるのではなく、聞こえない・聞こえにくい労働者にも分かるように、適切に情報が提供されないことが原因であるから、これを解消するのは雇用主側の責任なのである。

仮に、そのような聴覚障害者にとって劣悪な職場環境が現在も残っているとしても、それが、安優香さんが社会で活躍する頃まで続いていることを前提とした主張は、法的にも社会的にも許されない。

さらに、現在、スマートホンの音声認識アプリ(UDトーク等)を始めとするICTの急速な進歩により、聴覚障害によるコミュニケーションの困難は、相当程度解消されつつある。

確かに、現在、聴覚障害を持つ労働者の平均賃金は、統計上、健常者の約7割にとどまっている。しかし、このデータは、手話中心の教育を受けた世代が働くようになり、さらにICT活用が進んだ近い将来には大きく変わるはずである。

4.終わりに

読者の皆さんは、加害者側と、安優香さんの両親の弁護団のそれぞれの主張を読んで、どのようにお考えになるだろうか。私には、これは「古い障害者観」と障害者権利条約を批准した我が国が目指すべき「あるべき障害者観」の対立であるようにも感じられる。

障害者権利条約は、裁判所を含めたすべての国家機関に対して、障害者に対するあらゆる差別を禁止している。

にもかかわらず、私の知る限り、これまで、重度の障害を持つ子どもが事故で亡くなった場合の逸失利益を、健常者と同様の基準で判断した裁判例はない。

安優香さんは、11年というその短い人生をかけて、障害の有無にかかわらず、共に生き、共に働く社会とはどのようなものなのかという大きな問いを、私たちの社会に投げかけている。