コラム

マラケシュ条約と視覚障害者の読書を考える

共生社会の足音

弁護士 大胡田 誠

月刊『視覚障害』2015年9月号掲載

1.マラケシュ条約が話題にならない理由

マラケシュ条約という条約を聞いたことがあるだろうか。国連の専門機関である世界知的所有権機関(WIPO)が2013年6月、モロッコのマラケシュで採択した条約であり、正式名称は、文化庁の仮訳によれば「視覚障害者等の発行された著作物へのアクセスを促進するためのマラケシュ条約」となっている。

まず、条約の内容について簡単に説明してみたい。

この条約の目的は視覚障害者、文字の読み書きに困難のある学習障害者、寝たきりや手が不自由な身体障害者等に対し発行された著作物を利用する機会を促進すること、つまり障害があっても多くの本を読めるようにすることだ。対象となる著作物は、書籍や雑誌等の文字情報であり、音楽や映像は含まれていない。そして、条約を締結した国は次の2つの義務を負う。すなわち、①著作権者に許諾を得ることなく点字、DAISY、テキストデータなど、視覚障害者等にアクセシブルな書籍を作成できるよう、国内法で著作権の制限や例外規定を設けること、②海外の締約国とアクセシブルな図書データの輸出入を可能にする規定を整備することである。

政府は文化庁の専門委員会で批准に向けての議論を行なっているが、一般の視覚障害者の間でこの条約が話題になることはほとんどない。それはなぜか。答えは、この条約が直接的には日本の視覚障害者の読書環境に大きな変化をもたらすものではないからである。既に日本では、視覚障害者に関する限り、点字図書館や一般図書館等が、著作権者に許諾を得ずに点字、DAISY、テキストデータなどの図書を作成することが認められているため、この点での条約のインパクトはほとんどないし、もしも点字やDAISYデータを海外と自由にやりとりできるようになったとしても、日本では、外国語の書籍を必要としている視覚障害者はさほど多くないのであまりありがたみがない。

マラケシュ条約は、それ自体として日本の視覚障害者の読書環境を劇的に改善する内容をもつものではないかもしれないが、グローバルな規模で障害者の読書が議論され、日本政府もこの問題に関心を持っている今は、私たちの読書環境について議論を一歩進めるいい機会なのではないかとも思う。まだ夢物語に近いが、この点について私が常々考えていることをお話する。

2.「書籍バリアフリー法」の可能性

これまで、視覚障害者に対する書籍の情報保障は、特定の場合に著作権を制限し、点字図書館等が点訳等を著作権者の許諾なく行えるようにする形で図られてきた。しかし、視覚障害者の書籍へのアクセスの問題を抜本的に解決するためには、あらゆる人にとって読書することは権利であるという認識に立ち、出版社等に対して、書籍の電子データを、点字図書館やボランティア団体等及び視覚障害者個人に対して提供することを義務付ける以外にないと思われる。

現在、一冊の書籍が出版されるまでの全工程のほとんどで電子データが用いられている。もし、点字図書館やボランティア団体等が出版社から書籍の電子データの提供を受けられれば、自動点訳システムを用いた点訳資料や高性能のTTSを用いた録音書籍、テキストデイジー形式の書籍等の作成が容易となり、点字図書館やボランティア団体等が視覚障害者に対し、これらの形式の書籍を提供するまでにかかる時間や労力が大幅削減できる。また、個々の視覚障害者は紙の書籍を購入すれば、出版社等からその書籍の電子データを提供してもらえれば、視覚障害者は、最も簡易かつ即時に書籍にアクセスできるようになる。

しかし、現行法制度では、出版社は点字図書館等に対して書籍の電子データを提供することは求められておらず、出版社に対して電子データの提供を依頼したとしても、ほとんどの場合これに応じてくれることはない。

これを制度化するためにはどうすればよいか。ここで、いわゆる「教科書バリアフリー法」の仕組みが参考となる。同法では、障害児のための拡大教科書等を作成する点字図書館やボランティア団体等が求めた場合、教科書出版社は文部科学大臣等に対し、当該教科書の電子データ(PDF形式のデータが推奨されている)を提供することが義務付けられている(法5条)。文部科学大臣等はこのようにして提供された電子データを適正に管理するとともに、点字図書館やボランティア団体等にそのコピーを提供することとされている。

確かに、教科書は、もっぱら教育目的に使用されるものであって、これを使用する障害のある児童・生徒の情報保障を図る必要性が高い。また、教科書として選定されると一定部数以上の販売数が確保されるため、出版社に対して電子データの提供という負担を課すことも受け入れられやすいという点で、教科書と一般図書では異なる点がある。しかし、出版社による電子データの提供方法を標準化し、文部科学大臣等が一時的に電子データの提供を受け、これを適正に管理し、個別のデータ提供先についてチェック機能を果たすことで違法な複製や目的外利用を可及的に防止するという教科書バリアフリー法のスキームは、一般図書についても大いに参考になるものと考えられる。また、教科書バリアフリー法では、データの提供先は点字図書館やボランティア団体等に限られているが、違法な複製や目的外利用を禁止する法整備も併せて行なえば、データ提供先をこれらの視覚障害者の支援者に限定することに合理性があるとは思われない。個々の視覚障害者が求めた場合には、出版社は、これらの者に対して、電子データの提供を行なわなければならないとすべきである。教科書バリアフリー法のスキームを一般書籍にも拡大して、日本国内で出版される全書籍を対象にした「書籍バリアフリー法」を作ることは、あながち非現実的な話ではないものと考えるのだがいかがだろうか。

3.終わりに

筆者が司法試験の受験生であった頃、受験勉強に必要な書籍がほとんど点訳や音訳されておらず勉強を始めようにも始められない時期があった。そんな時、ある司法試験予備校がテキストや問題集のすべてをテキストデータで提供するという英断をしてくださった。これによって受験勉強の能率は格段に向上した。前述したような法整備には様々な課題があるが、出版社などによる電子データの提供が、視覚障害者の未来を開く鍵の一つであることは疑う余地がない。マラケシュ条約を契機として、このことについて、私たちも真剣に考えてみるべきではないか。